新選組に斬られた男「芹沢鴨」

「芹沢鴨」は、新鮮組の局長であったのですが、自分の所属する新選組のメンバーに粛清されてしまった理由は、当時の時代背景が大きく関わっているようです。水戸の裕福な家庭に育った芹沢鴨は、将軍の上洛を護衛するための浪士隊の募集に集い参加する中で、近藤勇らと新選組を結成します。新選組の主要メンバーであった芹沢鴨がどうして、同じ新選組のメンバーから斬殺されなくてはならなかったのでしょうか。そこには、幕府の勝手な都合や新選組ないの内部体制の問題が指摘されているようです。芹沢鴨は、神道無念流の剣術に長けた、敬幕派である人物であった。芹沢鴨の出生が、御三家の水戸であったことから、敬幕の思想が強かったようです。新選組の結成は、将軍の上洛を護衛する浪士への志願が、きっかけであったようですが、その後、京の取り締まりを行う新選組の一員として、最上位の局長を努めるまでであったにも関わらず、将軍の後見職となった慶喜が公武合体を支援していくと、敬幕として尊王攘夷の思想の強い、芹沢鴨が目ざわりになった為、幕府側の都合と、新選組内の内部事情が合致し、土方、沖田の手によって殺害されたようです。芹沢鴨の愛刀「備後三原守家正家」は、切れ味のよい武士たちには評判のよい刀であったようですが、新選組のメンバーに狙われた夜には、酒に酔ってお梅とい女性と床についたところであったため、自慢の剣を抜くことはできなかったようです。芹沢が討たれた家屋は、現存するため、家屋内の刀傷も実物をみることが可能であるようです。

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